現状の「食べられる」には自発と受動と可能の尊敬のニュアンスが共存する。
でも、「食べれる」には可能のニュアンスだけが残っている。
「られる」=自発と受動と尊敬
「れる」=可能
って区別するのは合理的な選択だと思う。
コミュニケーション上の混乱を回避できるのだから。
日本語の曖昧さを払拭していこうとする昨今、これは進化です。
できれば、自発と受動と尊敬も何とかして欲しいのだけれどw
でも、「れ足すコトバ」?
「食べれれる」にはコミュニケーション上なんのメリットもない。
ま、わざと間違えて冗談っぽいニュアンスを出せるかもしれないけどね。
ちなみに「ら抜き」は一部地域の方言として昔から存在していて、
中国地方の「食べれん」「見れん」とか。。。
元々あった「ら抜き言葉」がマイナーなのは、
明治の言文一致運動家のみなさんの迂闊と言うか、見落としと言うか。。。
その程度の問題とワタシは思います。。。
そもそも、今の日本語って坪内逍遥や二葉亭四迷や山田美妙や樋口一葉や森鴎外やや北村透谷や幸徳秋水とかが合理性を求めて作った人工的な日本語なわけで。
「小説」よりも「日本語」という作品を作ったという意味で上記の先人はほんとにスゴイと思うわけだけれども、
現代人はそれをありがたがってるだけじゃいかんだろう。
クリエーターにとって「言語を創造」するってスゲーやりがいのあることだと思うし。
じゃんじゃんチャレンジしてほしいね。